『母の日』

 私、六条美咲と母親の仲は悪くない。
 起床や帰宅の挨拶は毎日しているし、ご飯だって一緒に食べる。それなりに会話も交わす。
 今日だって午後からの講義の前に、一緒に800円ほどのパスタランチセットを食べた。母親イチオシの店らしく、確かにお洒落な内装と一風変わったメニューは好ましいものだった。


 しかし、仲が悪くないことと好き嫌いは、また別の話だった。


 退屈な大学の講義から帰宅すると、母親が鼻歌を歌いながらキッチンに立っていた。

「ただいま」

 キッチンの横を一瞥もせず通り過ぎ、自室に入って鞄を投げ捨てる。ひらひらしたスカートを部屋着のズボンに着替えていると、おかえりという声が扉の向こうから聞こえてきた。

 夕飯は何、そう聞こうとして自室から顔を出すと、母親はキッチンのシンクで花瓶に水を入れているところだった。花瓶にはスプレーフラワーや、赤、黄色の花弁の美しい花が飾られている。

「何、それ」

 私がそう聞くと、母親は意味ありげな笑顔を浮かべた。

「セルフ"母の日"よ……綺麗でしょ?」

 ……ああ、その花はカーネーションだったか。そう他愛ないことを考えながら、私は必死に、不快感を顔に出さないように努めていた。


 私は母の日が嫌いだ。


 母親に感謝することを強要されるのがどうしても受け付けなくて、母の日のCMや広告を目にする度に眉をしかめてしまう。もう20にもなるのに、嫌悪感はいつまでも残り続けていた。それでもなんとか、毎年その日を黙殺してきた。

 しかし、母親は度々こうやって母の日を意識させる。止めてくれとも言いづらい。けれど何かを暗に要求するようなその台詞が、気持ち悪くて仕方なかった。

「……そうだね」

 生返事をして、スカートを片付けるためクローゼットに向かう。
 そんな私の気持ちを知っているのかいないのか、母親は次々と言葉を投げ掛けてくる。

「ねえ美咲、世間では明日母の日なのよ?」

「…………」

 だから何だ。

「少しくらい何かあっても良いと思わない?」

 私は思わない。

「ねえ、」

 何も聞こえないふりをして、急いで自室へ飛び込む。乱暴に閉めた扉が、ガチャン!と大きな音を立てた。
 何もする気力がなくなってしまって、その場にずるずると座り込む。体育座りをして頭を抱え込めば、少しは落ち着ける気がした。


 私は母の日が嫌いだ。

 母親は昔精神的に不安定な時期もあったが、今は安定して普通に接することができるようになった。家事もしてくれているし、色々と私にアドバイスしたり、手伝ってくれる。本当は、感謝しなければならないのだろう。
 けれど、母親の与える言葉は脅迫となり、行動は過干渉だった。気付けば私は、自分のやりたいことを自分一人でやることにさえ罪悪感を覚えるようになった。

 そんな母親が、どうして感謝なんて求められるのだろう。

 私は、感情的になった母親が、幼い私の髪を引きちぎらんばかりに掴んできたあの痛みを忘れられない。自殺まで考えた私が学校を休みたいと言ったとき、怠けていると言ったあの言葉を忘れられない。
 忘れたく、ない。過去の私の恐怖を、悲嘆を、そして憎悪を無かったことにしたくない。たとえそれが呪いだと分かっていても。

 けれど、同じ名字を持ち同じ家で暮らす者として、最低限の挨拶や会話は必要だった。関係の悪い人間と同じ空間にいることの方が耐えられなかったのだ。
 発言全てにケチを付けてみたり、機嫌悪そうに振る舞った時期もあった。それでも、「嫌い」の一言はずっと言えないままでいる。
 そして、これから先も、私が母親に本心を言えることはないのだろう。


 目を閉じれば、赤や黄色の花びらが頭を過る。赤いカーネーション花言葉は「哀れみ」、黄色のカーネーション花言葉は「軽蔑」。母親は、それを知っているのだろうか。
 母の日でなければ、その花に意味はないのに。